■薬師寺
世界遺産の「薬師寺」に参拝してきました。
薬師寺は、天武天皇により発願(680)され、持統天皇によって本尊開眼(697)が行われ、文武天皇の治世においてようやくお堂が完成しました。
平城遷都(710)の際に現地へ移されました。その後、度重なる災害にみまわれ、享禄元年(1528)の兵火では東塔を除く諸堂を焼失しました。
1960年代以降、失われた堂塔の復興は薬師寺の悲願として、高田好胤(たかだこういん)師を中心に写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、昭和51年(1976)に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建されました。
薬師寺は「法相宗(ほっそうしゅう)」の大本山で、平成10年(1998)にはユネスコより世界遺産に登録されています。
■東院堂【国宝】
「東院堂」は、元明天皇(げんめいてんのう)の冥福を祈り、養老年間(717~724)に吉備内親王(きびないしんのう)が建立されました。
奈良時代には現在地より東側(現在の観音池)に建てられていたようですが、天禄4年(973)に火災で焼失しました。弘安8年(1285)現在の場所に南向きで再建されましたが、享保18年(1733)に西向きに変えられたようです。
現在の建物は正面7間、側面4間の入母屋作り本瓦葺の和様仏堂で、水害・湿気を避けるため高い基壇の上に建てられています。
堂内には白鳳仏を代表する聖観世音菩薩【国宝】が安置されています。また、その四方を鎌倉時代に造られた四天王像が守護しています。
■中門・回廊
「中門」は享禄元年(1528)の兵火による焼失後長らく復興されることはありませんでしたが、お写経勧進によって昭和59年(1984)に復興されました。
また、二天王像も享禄元年(1528)の兵火により中門とともに焼失しましたが、平成3年(1991)に復元されました。
回廊は、藤原京薬師寺では単廊だったようですが、平城京薬師寺では2重構造の複廊になっているのが特徴です。
■東塔【国宝】【解体工事中】
塔本来の意味はお釈迦様のお墓だそうです。インドの梵語ストゥーパの音訳で〔そとうば〕となり、それが塔婆、更には塔と表現されるようになったそうです。塔の原型はお釈迦様のご遺骨〔仏舎利(ぶっしゃり)〕を埋葬した盛り土で、遠くからでも拝めるようにより高い台の上にお祀りするようになったようです。
「東塔」は薬師寺で創建当時より現存している唯一の建築物です。東塔は一見六重に見えますが、これは各層に裳階(もこし)と言われる小さい屋根があるためで、実際は三重の塔です。この大小の屋根の重なりがリズミカルな美しさを醸し出していることから“凍れる音楽”と称されています。
塔の上層部を相輪(そうりん)と言います。相輪の頂上には水煙が祀られており、尊い塔が火災にあわないようにとの願いが込められています。水煙には24体の飛天が笛を奏で、花を蒔き、衣を翻し、祈りを捧げる姿で透かし彫りされています。
現在「東塔」は平成21年(2009)より解体修理のため、覆屋に覆われておりその姿を拝むことはできません。修理の概要は、瓦・木部・基壇などを全て解体し地下の発掘調査を行い、その後傷んだ部分を修繕して再び組み上げるそうです。
修理は平成31年(2019)の春に完了する予定です。
■西塔
「西塔」は享禄元年(1528)に兵火で焼失し、昭和56年(1981)に創建当初の白鳳様式で復興されました。
東塔と対照的な位置に建ち、東塔と比較して色合いがとでも鮮やかで当時の平城京の華やかさをよく表しています。
万葉集の一節にも
あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり
と歌われています。
「青丹良し」とは奈良の枕詞を意味し、青色は塔の連子窓(れんじまど)に、丹(に)色は扉や柱に使われています。
西塔と東塔の外観は似ていますが、色をはじめ連子窓の有無や屋根の反り、基壇の高さ等違いも多く見受けられます。一例として、東塔が裳階部分を白壁としているのに対し、西塔は同じ個所に連子窓を設けています。元々は東塔も連子窓だったようですが、度重なる修復の間に白壁となったようです。
両塔の違いに1300年という歴史の流れを感じます。
現在、東塔は解体工事中で拝見することはできませんが、華麗な西塔と長年風雪に耐えた東塔が並び立つ光景は大変印象的ものとなるでしょう。
両塔の先には金堂、大講堂がありますが、続きは後日にさせていただきます。
(参照:薬師寺ウェブサイト・案内説明・パンフレット)
兵庫 リフォーム NEXST 片山でした。