■仙岳院(せんがくいん)
「仙岳院」は、長和年中(1012~1017年)に日照により創建され大日院と称されていましたが、圓教寺第120世長吏快周(ちょうりかいしゅう)が寶永年間(1704~1712年)に再建するにあたり現称に改められました。本尊は大日如来です。
■金剛堂(こんごうどう)【国指定重要文化財】
「金剛堂」は、もとは永年2年(984年)創建の普賢院という塔頭の持仏堂で、性空上人の居所であったと伝えられる三間四方の小堂です。内部は天井に天女が描かれており厨子を安置する仏壇が設けられています。本尊は金剛薩埵像で、現在は食堂に安置されています。
■鐘楼(しょうろう)【国指定重要文化財】
「鐘楼」は、国指定重要文化財とされており、寺記によると元弘2年(1332年)に再建され、鐘は元亨4年(1324年)に再鋳されたものとされています。袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で全体としてもよく整った形をしており、鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として県下で最も古い遺構とされています。
■法華堂(ほっけどう)
「法華堂」は、寛和3年(985年)播磨国司藤原季孝によって建立され、もとは桧皮葦だったようです。現在の建物と本尊は共に江戸時代に造られたそうです。法華三昧堂ともいわれています。
■薬師堂(やくしどう)
「薬師堂」は、簡素な草堂であったものを性空上人が造り替えて三間四面の堂にしたのが始まりとされ、圓教寺境内に現存する最も古い建物です。根本堂とも呼ばれています。寺伝によれば、延慶元年(1308年)に焼失し、現在の建物は元応元年(1319年)に再建されたもののようです。軒を支える組物には、挿肘木など大仏様の特色がみられます。本尊の薬師如来等は現在の食堂に安置されています。
■十地院(じゅうちいん)
「十地院」は、勧請殿跡地に建立され、瀬戸内海を庭越しに眺望できる唯一の塔頭です。もとは名称のみが残っており、開山堂西の広大な敷地にあったとされています。
■瑞光院(ずいこういん)
「瑞光院」は、塔頭のひとつですが、建立や縁起はよくわかっていません。秋には鮮やかな紅葉が古びた土塀によく映えます。
■壽量院(じゅりょういん)【国指定重要文化財】
「壽量院」は、圓教寺の塔頭の1つで、境内で最も格式の高い塔頭寺院として知られ、承安4年(1174年)に後白河法皇が籠って神仏に祈願されたとされています。建物は、仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と台所を設けた庫裏からなり、両者を唐破風の玄関でつなぐ、当時の塔頭寺院としては極めて珍しい構成となっています。
■十妙院(じゅうみょういん)【国指定重要文化財】
「十妙院」は、赤松満祐がわずか16歳で亡くなった女の冥福を祈るために建てたものとされ、天正7年(1579年)正親町天皇により「岡松院(こうしょういん)」の勅号を賜りました。その後、圓教寺第106世長吏實祐(ちょうりじつゆう)の住坊となり、正親町帝より「十妙院」の勅号を賜りました。圓教寺独特の塔頭形式で、塔頭壽量院とは左右逆ですが、ほとんど同じ平面構成となっています。
■妙光院(みょうこういん)
「妙光院」は、創建はよくわかりませんが、もとは壽量院の北側にあり、明応4年(1495年)鎮永が再興するまでは妙光坊と称されてました。享和年中(1801~1804年)祖渓が再修しましたが、明治の末年には建物が取りたたまれ本尊は他に移されました。その後「妙光院」の名称だけが残っていましたが、現在の安養院跡地に再建され本尊も安置されました。
■三十三所堂(さんじゅうさんしょどう)
「三十三所堂」は、西国三十三観音をまつるお堂です。三十三所堂の発生は、「うつし霊場」を簡略化したものだと考えられています。「うつし霊場」は、江戸時代には庶民の間で西国三十三所観音巡礼が広く行われるようになりましたが、社会情勢や交通の不便な時代に誰でも三十三観音に出会えるように各地に造られました。
(参照:パンフレット・案内説明)
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